わたしは考えてしまう。
時おり報道される、虐待事件の被虐待児がもし、一命をとりとめていたなら、それはどうなのだろうかと……
もちろん、命ある方が良い。生きている方が良いに違いない。幸せになる可能性だって、ないわけではないと思うからです。
ですが、 大きな障害を残すケースや身体に一生残るような機能障害が残った場合、そこへきて、さらに「心の傷」が残るとなるとこれは相当、生きることがとても辛い。
「生きていても死んだよう」にしか生きることのできないケースを知っている者としてはそれが幸せなのかどうかについて、とても難しい問題だと考えてしまうのです。
病院にだって定期的に通院しなくちゃいけない、 義手や義足のようなものを用意しなくてはいけないケースもあるだろうし、カラダ中に怪我や火傷のあとが残っているかもしれない。それらに振り回されて、みんなと同じような社会生活が送りたくても送れない。
もちろん、虐待をするような環境なのであるから、協力をしてくれるような親や家族、親戚がいるわけでもない。
なんでも、自分自身次第なのかもしれない 。 しかし、やっぱり、それだけではどうしようもない、周りの協力が理解が必要だと考えます。
公認(臨床心理士)心理師も精神科医も家庭裁判所調査官も弁護士も児童福祉司、各福祉士も、何よりも周りのみんなの理解と協力が必要なのではないでしょうか。
もし、これが自分であったらどんな気持ちだろう。
もし、これが自分に近しいものの問題であったならどんな気持ちだろう。
もし、これが自分の大切な人だった場合だったらどうだろう。
想像をしてみてはいただけないものでしょうか。
人を信頼することができるようになれば、人を愛することができるようになり、 機能障害なども乗り越えていくことができるかもしれない。
そして、自分の家族を持つことができたり、周りのみんなと違和なく過ごし、社会生活を送ることができるかもしれない。「可能性」という言葉はこういう時にこそ、もちいたい言葉だと切に思うのです。
そんなことは自分で頑張れ、自分でやれという声も聞こえてきそうですが、なんとか理解を頂けませんでしょうか。
それがもし当事者の幸せに繋がっていくのならとても素晴らしい事なのではないのでしょうか。
次回あたりからは家庭裁判所や弁護士への介入をお願いする段階のお話をしていきたいなぁと思います。